千葉ヨットビルダーズクラブジュニア

始まりはヨット製作教室

千葉ヨットビルダーズクラブの始まりは1970年。船の公民館として全国的に有名になった海洋公民館「こじま」主催の「第1回市民ヨット製作教室」で、一人乗り用の小型ヨットを製作した受講生の有志たちが設立したクラブである。この当時製作した小型ヨットは2.3プラム級と称されるヨットで、長さ2.3m、幅が1m弱のものである。
製作教室受講生達は設計図をもとにして、地面に船台を築き、ただの一枚の合板・一本の角材から加工してゆき、木製2.3プラム級を5月の初旬から約3ヶ月かけて(土日を利用)作り上げるという作業をした。まさに小さいながらも造船(ship building)を地でいくものだった。
製作場所は海洋公民館の北側に位置する海岸べりの木造家屋内であった。第1回の卒業生の有志たちは習得した木工技術・製作技術を翌年の受講生に伝授しようということで、自らをYacht Builders(ヨット製作者)と称しクラブをつくった。これが千葉ヨットビルダーズの名前の由来となる。
卒業生の一部(千葉ヨットビルダーズクラブ会員となったもの)が、ボランティアで翌年の受講生の先生になっていく。という目に見えない財産を作り上げていった。もっとも、クラブ員の多くが木工技術に長けているというのではなかったが、人数がある程度いればよくしたもので、プロ顔負けのクラブ員が毎年のように現れて彼らがリーダーとなっていった。千葉ヨットビルダーズクラブの当初の目的はそうした技術の伝授の他に、自分たちで作ったヨットに自分の子どもや地域の子どもたちを乗せて楽しませ、海に親しめる場を提供したいというものだった。これはやがて千葉ヨットビルダーズクラブ・ジュニアの活動という形で発展していくことになる。

OP級の製作へ

クラブは艇庫とよんでいた木造家屋を活動場所とした。ここにクラブ員たちがヨット製作に必要な工具・資材などを少しずつ提供し、ヨットの係留場も確保して一つの有形財産をも形成していったのである。
74年からは規格が世界標準になっていたオプティミストディンギー(OP級)を製作するようになった。市民ヨット製作教室は千葉市民に好評で毎年5月に受講生の募集を行っていたが、定員20名を大きく上回る応募があったと言われている。製作教室は、ヨットを自作するのと、その先生たちが前年度の受講生であるといったことからユニークな公民館主催行事としてマスコミにもたびたび取り上げられた。
1977年には製作教室の現場を現在の稲毛海岸駅北側(現稲毛構内タクシー所在地)に移した。ここにクラブハウスも移設されたのである。当時この周辺は埋め立てされたばかりであった。勿論京葉線も未開通で、道路も舗装されておらず、住宅公団の団地がわずかに点在するといった荒涼たる風景が小屋をとりまいていた。1982年9月に正式に稲毛ヨットハーバーが開港されるまではクラブ員のヨットの帆走訓練場所は開港前のヨットハーバーや千葉港、船橋の海岸、幕張の浜などであった。このころにはすでに内陸部になっていた艇庫や製作小屋からヨットや救助艇を海岸にまで移動させるのは一苦労だった。海に出る、ヨットを走らせるといった今ではごく当たり前の行為が限りなく貴重な営みであるとさえクラブ員たちは思っていたのである。(千葉県セーリング連盟創立50周年記念誌より抜粋させていただきました)

img_1581951_42322457_1.txt.jpeg海洋公民館こじま

変な形の小さなセールが楽しくて

昭和55年32歳、引越し予定の千葉の近くにコンクリート岸壁とスロープだけの小さな入江があるのを知り、何となく行ってみました。磯辺高校の生徒たちが練習をしていて、水を切る音とラチェットの音だけで進んでいるのを見て「いいな」と思ったのがヨットを始めたきっかけです。引越すとすぐ、ヨットを買いに行きました。千葉マリーナという所で売っていた「ティール14」という艇。あちこち行って乗りました。浜から出た時、突然の雷雨で怖い思いもしました。入門書を読みあさり、人が失敗しているのを反面教師にしながら覚えて行きました。
しばらくすると救助艇で子供たちを従え練習に来る一団が気になり始めました。毎年大人の会員を募りOPを造りその船を使って子供たちに教えていると聞いて、もともと大工仕事が好きだったので入会。ところが諸般の事情で製作はしばらく休止。「舵」にあった広告でOPの自作キットを買いました。日本船具のアルミパーツがついて7~8万位、ラダーは完成品をサービス?してくれました。製作最後、塗装の2週間はもう大変。家の中に持込み、会社から帰って夜ニスを塗り、翌々日の夜また塗る、の繰り返し。そういうのを見ていて、息子は「ここをこう治して。」という注文は多かったけれど、「WINNERがほしい」とは自分からは言いませんでした。
昭和60年、それまでOPの面倒を見ていた人が勤務の都合でいなくなり、私が世話する立場になってしまいました。「日曜日はヨットの日」の始まりです。あの変な形の小さなセールが楽しくて、家内と子供を巻き込んでOPにのめり込んでしまった。他のフリートの指導者の方々にいろいろ教えていただき、子供達と一緒にOPの事を覚えて行きました。平成元年、息子、中1の春、福岡へ転勤。Jrを他の父兄の方にお願いし単身赴任、福岡でもOPの子供達に遊んでもらってました。平成3年、息子、中3最後の全日本が琵琶湖でありました。息子とカミさんは千葉から参加、私は福岡から。その最終レース、強風で全員一たんハーバーへ引き上げ。レース委員会から、「レースは行う。各フリートは出場者を選定する事。人は助けるが艇は放棄する事もありと思って下さい」との通告。息子のセールは他の艇のスプリット先端が当たって上部10cmほど裂けてしまっていました。急いで乾かしてリペアクロスを貼らねばならない。電源のある洗面所へ持っていったがドライヤーが無い。それまでじっと見ていた小さな子に「もしドライヤー持ってたら貸してくれない?」と頼むと目でうなずいてどこかへ消えました。しばらくしてその子がひとりでドライヤーを抱えてきました。自分達で持ってきたものか他の人に借りてきたかはわかりませんが、父親あるいは他の大人に説明するやりとりがあったはず。ありがたかった。そして自分ひとりで持ってきたのが意外でした。出艇の旗がいつ揚がるかわからない中、急いで乾かして両面貼り付けました。貼り終わって「ありがとう」とドライヤーを返した時、なぜかうれしかった。
強風の中の最終レース、観覧艇で見ていた最終レグ、J-1549が見えません。それまで5番手くらいを走っていたのに。「どこかで沈したのかな」と思っていると、遠くの左の方にひとりだけポツンとブローの中をオーバーセール気味にスターボーで上ってくる子がいる。もしやあの格好はと思っていると見る見る近づいてきてかなりの差でトップフィニッシュ。この強風の中、大抵は途中で疲れてタックするのですが、あれだけの距離を同じタックで走れるとは見上げたもの。この全日本が最初で最後のOP公式レース1位なんです。この時のホストクラブ琵琶湖ジュニアの親分が吉岡さんでした。

親子のいい関係づくりを

OPの基本は親子関係。良し悪しにかかわらず。だから何でもアリなんです。本当は父兄のどなたかが面倒見て行くのがいいんですけどね。初めはOPの事は知らなくても子供達と一緒に覚えて行けばいいんです。技術、テクニックなんて教わっても身につくものでもない。見て、盗んで、得とくして行くもの。見る機会を多く与えることですかね。欲が出てくればしめたもの。あとはほっといてもOK。
さぁ、ちょっと違う親子関係を作ってみませんか!
別にレースに出たいわけじゃない、上の順位をとらなくったっていい、のんびり海の上にいればいいんだというブルーウォーター派のジュニア達、別に引け目を感じなくてもいいです。ヨットにはいろんな楽しみ方がある。ただ、安全に帰ってくる事だけは忘れないで。
(2004.5.松島ジュニアヨットクラブHP「50帆100帆」寄稿文をご本人の承諾を得て掲載)

7才 まだひとりでは乗れない頃.jpg7才 まだひとりでは乗れない頃
8才 進水式.jpg8才 進水式 1985年10歳.jpg1985年 10才
ウルマー(実はウルマンと間違えて買ってしまったんですけど本人カーブが気に入ってました。).jpg10才初めて買ったホワイトセールウルマー(実はウルマンと間違って買ってしまったんですけど本人カーブが気に入ってました。)アジア大会 日本国からのもらい物.jpgアジア大会 日本国からのもらい物

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DH000051.jpgディズニーランド沖を帆走するGigの勇姿